学校では、子どもたちが掃除をします。
教室を掃く。机を運ぶ。廊下を拭く。黒板をきれいにする。
教師にとっては、ごく当たり前の光景です。
でも、前の記事「学校の『当たり前』は、なぜ続いているのか」で書いたように、学校の当たり前には、一度立ち止まって考えてみる価値があります。
そもそも、
なぜ、子どもが学校を掃除するのでしょうか。
「自分たちが使った場所だから、自分たちできれいにする。」
そう言われれば、もっともらしく聞こえます。
私自身、そこには教育的な意味があると思っています。
ただ、今回はそれだけで終わらせたくありません。
本当に、子どもが掃除をする必要があるのか。
なぜ清掃を専門とする人に任せないのか。
そこには教育とは別の事情もないのか。
一つの「当たり前」を、肯定する側からも、疑う側からも考えてみたいと思います。
「きれいにする」だけなら、子どもがする必要はない
まず、掃除の目的を、「学校をきれいにすること」だけだと考えてみます。
すると、必ずしも子どもがする必要はありません。
清掃を専門とする人に任せる。
性能のよい掃除道具を導入する。
清掃しやすい施設にする。
さまざまな方法が考えられます。
大人や専門家が行った方が、短時間できれいになる場所もあるでしょう。
それでも学校では、子どもたちが掃除をしています。
だとすれば、掃除には、「場所をきれいにする」以外の意味があると考えることができます。
掃除という「形式」の奥にあるもの
前の記事では、学校で繰り返される行為や活動の型を、「形式」と呼びました。
そして、その背景にある目的や理念、意図を、「意味」としました。
この考え方で見ると、
「決められた時間に、子どもたちが学校を掃除する」
というのが形式です。
では、その意味は何でしょうか。
例えば、
自分が使う場所を、自分で整える。
みんなが使う場所を、みんなで大切にする。
誰かのために働く。
役割を分担する。
汚れているところに自分で気づく。
一つの仕事を最後までやり遂げる。
掃除という一つの活動にも、さまざまな意味を見いだすことができます。
そう考えると、掃除は単なる清掃作業ではなく、
共同体の中で、自分がどのように関わるのかを経験する時間
として見ることもできます。
「自分たちの場所を、自分たちで整える」
私は、掃除について考えるとき、
「自分たちの場所を、自分たちで整える」
という感覚には価値があると思っています。
学校は、子どもがお客さんとしてサービスを受けるだけの場所ではありません。
自分たちが生活する場所です。
汚れていれば掃除する。
物が乱れていれば整える。
次に使う人のことを考える。
誰かがすべてやってくれるのではなく、自分もその場所をつくる一人になる。
そこには、
「自分もこの共同体を支える一員である」
という感覚につながる可能性があります。
効率だけを考えれば、大人がやった方が速いこともあります。
それでも、あえて子どもがする。
結果だけではなく、その過程そのものに意味を見いだす。
これは、教育ならではの考え方だと思います。
教育には「非効率だからこそ必要な時間」がある
私は「教師の仕事術」で、効率化を大切にしてきました。
必要のない仕事は減らす。
仕組み化できるものは仕組み化する。
AIに任せられるものはAIに任せる。
できるだけ少ない教師の時間で、大きな教育的成果を生み出す。
この考え方は、今も変わりません。
ただし、教育には、
効率だけでは測れない時間
もあります。
子どもの話をじっくり聞く。
何度失敗しても、自分でできるようになるまで待つ。
みんなで一つのことに取り組む。
掃除も、その一つなのかもしれません。
大人がやった方が速い。
専門家がやった方がきれいになる。
それでも子どもが経験すること自体に意味があるのであれば、その非効率には価値があります。
しかし、ここで一つ注意しなければならないことがあります。
「非効率にも意味がある」と「非効率な環境のままでよい」は、まったく別の話です。
でも、本当に子どもが掃除をする必要があるのか
ここまでなら、
「日本の学校掃除は素晴らしい教育文化だ。」
という話で終わります。
でも、教師の思想塾で考えたいのは、その先です。
一度、反対側から見てみます。
子どもたちが学校を掃除するということは、別の見方をすれば、
清掃に必要な人員や費用の一部を、学校の中で担っている
とも言えます。
もし子どもが掃除をしなければ、その分、別の清掃体制が必要になるかもしれません。
そこには当然、費用が発生します。
では、
「掃除には教育的な意味があります。」
という説明だけで、この仕組みを肯定してよいのでしょうか。
本当に教育的な理由だけで続いているのか。
財政や人員、施設管理といった事情も影響していないのか。
ここまで視野を広げると、掃除の見え方は少し変わってきます。
「教育的だから」で、環境への投資を止めてはいけない
学校で働いていると、施設や設備について考えさせられることがあります。
古い校舎。
傷んだ設備。
使いにくい備品。
長く更新されていない環境。
もちろん、自治体や学校によって状況は大きく違います。
それでも、
「学校とは多少不便なものだ。」
という感覚が、どこかに残ってはいないでしょうか。
不便だから工夫する。
自分たちでやるから成長する。
苦労するから学べる。
確かに、そこから得られるものもあります。
しかし、この考え方を無条件に肯定すると、
「便利にしなくてもいい。」
「設備を改善しなくてもいい。」
「人を増やさなくてもいい。」
という話にもなりかねません。
教育的な意味を見いだすことと、
子どもや教師が置かれている環境への投資を求めることは両立します。
ここを混同してはいけないと思います。
「苦労すること」に意味を与えすぎていないか
これは掃除だけの話ではありません。
学校には、
「苦労することそのものに価値がある」
という考え方が入り込むことがあります。
時間をかけたから価値がある。
大変だったから成長できる。
自分で全部やったから意味がある。
もちろん、本当にそういう場面もあります。
でも、
「苦労したから成長した」
ことと、
「成長するためには苦労させなければならない」
ことは同じではありません。
ここを逆転させてしまうと、不要な負担まで教育として正当化されてしまいます。
これは、教師の働き方にも似ています。
子どものために時間をかける。
丁寧に仕事をする。
教師として大切なことです。
しかし、その「子どものため」という意味が、教師の過剰な負担を正当化する理由になってしまうこともあります。
美しい「意味」が、問題のある「形式」を温存するために使われていないか。
これも、教師が持っておきたい視点だと思います。
学校の「当たり前」には、教育以外の事情もある
学校にある制度や習慣を考えるとき、
私たちはつい、
「教育的にどんな意味があるのか。」
だけを考えてしまいます。
でも、学校も社会の中にある組織です。
そこには、
予算。法律や制度。歴史。行政。地域。産業。既存の仕組み…。
さまざまなものが関係しています。
例えば、給食一つをとってもそうです。
「なぜ、この献立なのか。」
「なぜ、この食品が長く提供されているのか。」
という問いに対して、栄養面だけを見ればすべて説明できるとは限りません。
制度がつくられてきた歴史や供給体制、農業政策など、教育の外側にある要因も考える必要があります。
だから、
学校で長く続いているから、教育的に正しい。
とは限りません。
逆に、
古いから、すべて間違っている。
とも限りません。
一つの形式がなぜ存在しているのかを考えるときには、教育的な意味だけではなく、その形式を支えている社会的な構造まで見てみる必要があります。
「意味を見つける」だけでは足りない
ここまで考えると、前の記事で提示した「形式」と「意味」の関係も、もう少し深く見えてきます。
形式の奥に意味を見つける。
これは大切です。
でも、
意味を見つけた瞬間に、その形式を肯定してしまってはいけない。
掃除には共同体を学ぶ意味がある。
だから、今の掃除の仕組みは正しい。
とは限りません。
次に、
その意味は本当に今も大切なのか。
その形式でなければ、その意味は実現できないのか。
その形式によって、誰かに過度な負担が生まれていないか。
別の方法でも、同じ意味を実現できないか。
そこまで考えてみる。
「意味」を考えることは、形式を守るためだけにするのではありません。
形式を変えるためにも、意味を考えるのです。
掃除における「礼行」とは何か
前の記事では、
「意味」と「形式」が一致した営み
を、教師の思想塾では「礼行」と呼びました。
掃除にも、この考え方を当てはめることができます。
最初は、
「掃除の時間だから掃除する。」
でもいい。
そこから、
自分たちが使った場所だから整える。
次に使う人が気持ちよく使えるようにする。
みんなの場所だから、自分も役割を果たす。
そうした意味が行為と結びついていく。
そこには「礼行」と呼べる状態があると思います。
ただし、教師自身はさらに一歩引いて考える必要があります。
その形式自体は、本当に今の子どもたちに必要なのか。
子どもに意味を理解させることと、教師が形式そのものを疑うこと。
この二つは両立します。
だからこそ、形式は変えていい
掃除に教育的な意味があるとしても、
昔からの掃除方法を、そのまま守る必要はありません。
例えば、
掃除時間は今の長さでいいのか。
すべてを子どもがする必要があるのか。
専門的な清掃が必要な場所は、大人に任せてもいいのではないか。
もっとよい道具を使ってもいいのではないか。
子ども自身が掃除方法を考える形にできないか。
こうしたことは考えられます。
大切なのは、
形式を守ることではなく、何を育てたいのかを守ること
です。
意味を残しながら、形式を変える。
あるいは、考え直した結果、その形式自体をやめる。
それも教育を考えることだと思います。
「なぜ掃除するの?」と聞かれたら
もし子どもから、
「先生、なんで自分たちが掃除するの?」
と聞かれたら、何と答えるでしょうか。
「学校ではそう決まっているから。」
だけで終わることもできます。
「自分たちの場所だから、自分たちできれいにするんだよ。」
と答えることもできます。
でも教師自身は、そのさらに奥で、
「本当にそうなのだろうか。」
と考えていてもいい。
むしろ、大人である教師だからこそ、その両方を持っておきたいと思います。
子どもには、その活動の意味を伝える。
同時に教師自身は、その活動そのものを問い続ける。
これは矛盾ではありません。
肯定することも、疑うことも
学校文化について考えるとき、
「昔から続いているものには意味がある。」
という立場もあります。
一方で、
「昔から続いているからこそ、一度疑った方がいい。」
という立場もあります。
私は、どちらか一方だけでは足りないと思っています。
掃除には教育的な意味がある。
でも、本当に今の形式である必要があるのか。
自分たちの場所を自分たちで整える経験には価値がある。
でも、それを理由に学校環境への投資を軽視してはいけない。
非効率な経験から学ぶこともある。
でも、苦労すること自体を教育にしてはいけない。
一つのものを、両側から見る。
それが、思想するということなのかもしれません。
学校の「当たり前」を、当たり前のままにしない
掃除は、学校生活のほんの一場面です。
でも、一つの掃除を深く考えるだけでも、
教育とは何か。
学校とは何か。
誰が学校を支えているのか。
何に税金や人を使うべきなのか。
子どもに何を経験させたいのか。
さまざまな問いにつながっていきます。
そして、これは掃除だけではありません。
挨拶。給食。当番。係活動。学級。学校行事。宿題。校則…。
学校の日常には、たくさんの「当たり前」があります。
その一つひとつについて、
なぜ、この形式があるのか。
そこには、どんな意味があるのか。
その意味は、今も妥当なのか。
誰にとって都合のよい仕組みなのか。
誰が負担を引き受けているのか。
別の形式でも、その意味を実現できないか。
そうやって考えてみる。
学校の当たり前に意味を見いだすことも大切です。
そして同じくらい、
その意味そのものを疑ってみることも大切です。
教師の思想塾では、どちらかの答えを正解にするのではなく、
学校の日常にある「当たり前」を材料に、
「なぜ?」を考え続けていきたいと思います。
教師の仕事を、もっとシンプルに。
毎日の仕事に追われ、
「もっと余裕を持って働きたい。」
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